加藤マミのストーリー第1章 ~探求の始まり~

中学校卒業式の翌日、交通事故に遭いました。
急性くも膜下、頭がい骨骨折、脳挫傷で1ヶ月以上意識不明でしたが、そこでの体験が「生死」への探求キッカケとなりました。

昏睡中に体外離脱を経験しました。
寝ている自分を客観的にみた貴重体験です。

そこに居なくても心臓は変わらず動いているし、意識不明と診断されていても意識がなくなるわけではありません。

昏睡中のわたしの心臓を動かし続けているのはわたしではないわけで‥

危険な状態をICUで、少し落ち着いてからはナースステーションの目の前の個室で過ごし、家族を始め多くの人が病室を訪れ、世話をし、涙を流し、快復を祈ってくれました。

事故日から2ヶ月と経たずして退院する私に、主治医が言いました。
「あの状態からなんの後遺症もなく、こんなペースで回復していく人を今まで見たことがない。私たちも出来る限りの事をしたし、君の若さもあると思う。でもこの奇跡はあなたの家族の深い愛情のおかげだと僕は思います。そのことはこの先も覚えていてください」と。

うれしいなぁと思う反面、どこか他人事のような不思議な感覚で話を聞きました。

お医者さんの処置?家族からの深い愛情?

私の意志とか関係なしに、生かされたって感じよね!? 選択権は私にない!?

加藤マミのストーリー第2章 ~ツライ学生生活~

過去を振り返って、1番しんどかった時はいつかと聞かれれば高校生の時だ。

退院後、学校に通い始めることができたのは5月下旬。
髪型はまだ坊主に近く、元気に走り回る筋力はない。

ルーズソックスを履いて、女子高生を全力で楽しむ友達に必死で合わせようとするも、空回り。
スタート2ヶ月を出遅れた私は勉強もノリもついていけない。

何もかもがつまらなく、モノクロに映るような毎日だった。

あー、イライラする。
なんで生き残っちゃたんだろう?そんなことも考えた。

卑屈になっていた3年間。
投げやりだった3年間。
学校がなくなってしまえばいいと願った3年間。
親に心配をかけた3年間。

本音で話せる人はいなかったし、
心の底から笑えるようなこともなかった。
当たり障りのない相槌さえもできない。

毎日がつまらない原因はなんだ?

容姿が悪いから?
面白いことが言えないから?
何をやっても中途半端だから?


周りにうまく合わせることができない自分がダメなんだと頭の中で責め続けた。
益々、友達関係はギクシャク。
結局3年間をそんな風に過ごしたけど、20年後に知ったこの世界の真実!

思考が先で現実はあと。

楽しくない現実を見て、原因は空気を読めず、友達に合わせられない自分だと思っていたけど、本当は自分のことを卑下しているから現実(結果)がそうなっていたということ。

思考が先で、現実はあと。
解釈や思い込みが、現実を創っていたってこと
あの頃の自分に教えてあげたい!!

現実を変えようとするのではなく、思考を変えたらいいんだよ。(厳密にいうと、思考を変えるだけじゃちょっと足りない、在り方を変える!)

今、タイムスリップしたらどんな風に変えるかなぁ‥

クラスの人気者!とかは違うな。
うーむ‥

【みんな違ってみんないい】を至極当然の事として価値観を持っていたならきっと、もっと自分らしさを全開に出来たんだろうな。
合わせられない私はダメなんだ‥とか言ってる自分に意味不明だから!って笑い飛ばしてあげたい。

馴染もうとしなくていい。
変わり者でいい。
大丈夫、思いきって行ってしまえーって╰(´︶`)╯♡

加藤マミのストーリー第3章 ~価値観を広げるには~

”学生”という肩書きがなくなるのが、楽しみ半分怖さ半分だった短大卒業の年。

思い切って休学し、ドバイに行った。

今のような観光地ではまだなかったし、情報も少なかったけど、環境を変えたかったから
日本とは距離も生き方もかけ離れたところに行けたのはラッキーだった。

その旅で強く残ったことは
”ところ変われば悩みはなくなる”ということ。

自分の友達関係、就職先なんてここではどうでもいいことだ。

足りないと思っていたことも、場所が変われば十分あることにも気づくし、逆も然り。

何をあんな頑なにダメだと思い込んでいたんだろう。

世界は広い!

行き詰まった時は、全く違う環境に身を置くのが手っ取り早いね。